仙台四郎の生い立ち

江戸末期~明治にかけて、宮城県仙台で暮らしていました

すまいる四郎

仙台四郎とは、江戸末期~明治にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物です。生年は安政元年(1854年)頃、没年は不明ですが明治36年(1903年)頃とみられています。本名は芳賀豊孝と推測されます。仙台藩に仕える鉄砲鍛冶屋の四男として生まれました。兄の二男・三男は幼少の頃に亡くなったため、男の子だとまたすぐ亡くなるのではと案じた両親は、幼い四郎に女の子の着物を着せ、大切に育てたと言われています。両親のほか、10歳年上の長兄・太郎が四郎の面倒をみていました。

 

四郎は知的障がいを持っており、街の人々から「しろばか」と呼ばれて親しまれていたと言われています。四郎の障がいには先天性説・後天性説があり、また、その程度についても諸説があります。言葉も「バヤン(ばあや、の意味)」としかしゃべれなかったという話もあれば、それ以上に会話ができたという話もあります。実際のところ、どのくらいのコミュニケーションが成り立っていたのか、その真相は不明です。

 

四郎は常日頃、ニコニコと街を歩き回っていました。知的障がい者であったことから、からかわれたり、いじめられたりもしたようです。しかし一方で、いくつになっても子どものように無邪気で明るく、人間本来の笑顔をつねに持っていたことから、行く先々で受け入れられ、大変可愛がられもしました。

ある時から、「商売繁盛の福の神」という噂が

すまいる四郎

そんな四郎が好んで立ち寄る商店はなぜか繁盛し、呼ばれても見向きもしなかった商店は倒産していった・・・。

 

やがて人々から、「しろばかは、実は商売繁盛の福の神様ではないか?」という噂が立ちました。以降、人々からもてはやされ、その動向は生存中から常に当時の地元メディアにとりあげられる存在となっていきました。

 

現在巷に伝えられている話は、史実をもとにしたものもありますが、通説も多くあります。当時の新聞各紙では四郎のことを面白おかしく扱う記事が多く見受けられ、中には誇張したとみられる内容も多く含まれていることから、その実像について諸説わかれた要因となっていると思われます。

 

いずれにしても、「仙台市長のことは知らなくても、四郎を知らない人はいない」と言われるほど、仙台では有名人であったことは確かです。

いつも散歩を楽しんでいました

すまいる四郎

四郎は常に街を歩き回っていました。生家は仙台の中心街にありましたが、その行動範囲は家の近所にとどまらず、時には馬車や汽車、自転車に乗ることも楽しんでいたようです。岩沼、石巻、白石といった宮城県内だけでなく、山形や福島にも足を延ばしていたらしい記録が残っています。好奇心で乗り物に近づいていく四郎は、周りの人々の好意から、いつも無料でそれらの交通機関を利用させてもらっていたと言われています。

 

そんな四郎らしく、最後は行方不明のまま消息を絶っています。明治36年(1903年)、48歳の頃に福島の須賀川で亡くなったらしいと言われています。当時の新聞には「釜山港を漫遊中」と書かれたり、また50歳代半ば頃にアジア大陸で死亡とも伝えられましたが、真相はわかりません。


没後に「仙台四郎」とネーミングされました

仙台四郎


 

生存中は「しろばか」と呼ばれていた四郎は、のちに「仙台四郎」として知られるようになりました。

 

明治18年頃、当時30歳の四郎を千葉一さんという方が撮影し、のちに大正時代になって「明治福ノ神(仙䑓四郎君)」と題した絵葉書を販売したことから、そう呼ばれるようになったようです。

 

以降今日に至るまで、この写真をもとに様々な肖像画が描かれています。